上野動物園のマダガスカルコーナーは気合が入っている。
童謡『アイアイ』で、「南の島の、しっぽの長い、猿」と歌われているアイアイ
この「南の島」がマダガスカルであるが、アイアイは地元民には姿が不気味だときらわれて、
見つけ次第始末されたので、いまや絶滅危惧種となっている。
マダガスカルにはレムール(キツネザル)類の固有種が多く生息する。
マダガスカルには猿が渡来せず、アフリカにいるような大型哺乳類や猛獣が存在しなかったので、
原猿類が残ったのである。
彼らは表情ではなく、においや尻尾や鳴き声でコミュニケーションを取る。
以下、主に駐マダガスカル大使を勤めた山口氏の著書『マダガスカル』によって、記述する。
マダガスカルはアフリカの隣の島国であるが、自分たちをアフリカ人とは思っていない。
どちらかというとアジアに親近感を持っている。
確かに彼らの先祖はマレー・ポリネシアから海を渡ってやってきた人々で、マダガスカル語はマレー語の一種なのである。
主食は米で、一人当たりの消費量では日本の2倍。そして強い先祖崇拝の伝統と相互扶助の習慣がある。しきたり通りの儀式をやってもらって「先祖」になることが何より重要であるため、「土の中に直に埋められてしまえ」というのが、人に対する最大の侮辱であるという。墓ではなく土の中に埋められたのでは「先祖」になれないのである。
マダガスカル、という名はマルコ・ポーロ由来である。西暦1500年、ポルトガル人の船乗りディエゴ・ディアスがアフリカの東の島に漂着した。この島の報告書を受け取ったポルトガル国王は「これは東方見聞録にあるマダガスカル島に違いない」と断定、以来この島はマダガスカル島と呼ばれることになった。
ちなみにマルコ・ポーロがマダガスカルと呼んだのは実際にはアフリカ東岸のモガディシオ(現在のソマリアの首都)のことであった。
18世紀にはメリナ王朝の名君アンドリアナムプイニメリナ王が天下統一を成し遂げた。
「余は唯一の国王なり。海が王国の境界をなす」
しかし英仏の角遂の末、1896年、フランスの植民地となってしまった。フランスから派遣されてきた将軍が権力を掌握し、王政は廃止されて、女王ラナヴァルナ三世および総理大臣ライニライアリヴニはアルジェーに流刑となった。
日本とマダガスカルとの関わりは、日露戦争の頃に始まる。
ロシア帝国のバルチック艦隊が対馬沖に向かう途中、マダガスカルで補給を行い、それをディエゴ・スアレスに住んでいた日本人雑貨商がボンベイ経由で日本に打電し、これがバルチック艦隊の動静を知る貴重な第一報になったと言われている。
当時、日英同盟のゆえにロシアはイギリスの勢力圏では補給を得られず、仏領マダガスカルに寄港する巡りあわせとなった。その結果、マラリアその他の熱帯病で多くの犠牲者を出して、戦う前からダメージを受ける羽目になったのであった。
その時点ではマダガスカル人は日本のことをほぼ知らなかった。関心が向けられるようになったのは1913年、マダガスカルの抗仏運動家ラベルザウナ神父が『日本と日本人』という著書を出版してからである。
マダガスカルはフランスの植民地となる前にすでに全国統一されていたので、植民地になると同時に独立を目指す抵抗組織が生れていた。ラベルザウナ神父はパリで日本についての文献を漁り、日本人学者の知己を得て、日本が西洋の生活様式を採り入れつつも自国の伝統を保持していることを知ったのであった。神父の著書は独立運動家の間で熱心に回し読みされ、大いに独立への意気を燃え立たせたという。
第二次世界大戦では、マダガスカルはヴィシーフランスの支配下にあり、枢軸側であった。
ディエゴ・スアレス軍港を制圧しようとするイギリスに対し、ドイツ海軍はアフリカ東岸のインド洋にまで艦隊を派遣する余裕はなかったので、日本が潜水隊を送った。特殊潜航艇ディエゴ・スアレス港侵攻作戦である。
1942年5月30日、岩瀬勝輔少尉と高田高三二曹、秋枝三郎大尉と竹本正巳一曹が乗り組んだ特殊潜航艇二艇は、湾内に潜入して魚雷四発を放ち、戦艦ラミリーズを大破、その近くにあったタンカー、ブリティッシュ・ロイヤルティー号を撃沈するという戦果を挙げた。その後、四名はイギリス兵と交戦の末、戦死。フランスとイギリスの戦闘は続いたが、ただでさえギリギリの日本海軍が、マダガスカルに増援を送ることはできなかった。
マダガスカルの戦い
1997年、戦死した四名の慰霊碑がアンツィラナナ(旧名ディエゴ・スアレス)に建立された。式典にはアンドリアンリヴォ首相夫人も参列。遠くアフリカの東の地にまでやって来て戦った勇士たちに感銘を受け、当時カナダと競っていた愛知万博の開催に協力を約束してくれたのであった。