2018年05月

盛岡と花巻に行って来ました。

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岩手銀行旧本店から、盛岡城址公園へ。

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不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
<石川啄木>

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一泊して、翌日は新幹線で新花巻駅へ。
目的は宮沢賢治記念館。
バスは極端に少なく、タクシーは駅前にスタンバイしていますが、今回は歩くことにしました。
至る所に賢治の夢の名残を見ながら歩く北国の春の道。
歩かないのはむしろもったいないほどです。

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SL銀河鉄道が走るのを見たり、小さな神社に寄り道したりしながら歩くこと三十分。
記念館の入り口である階段が見えました。
記念館は賢治が「(法華)経を埋めるべき山」と記していた胡四王山に建てられているのです。

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三百数十段を上ると山猫軒があります。
そこから記念館に行く道と、ポランの広場を通って宮沢賢治イーハトーブ館に続く道があり、
どちらを先にしてもよかったのですが雨上がりの晴れた空気が気持よかったので、
広場の方に足が向かいました。

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「あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、
 うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、
 またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、
 羊飼のミーロや顔の赤いこどもたち、地主のテーモ、山猫博士のボーガント・デストゥパーゴなど、
 いまこの暗い巨きな石の建物のなかで考えていると
 みんななつかしい青いむかし風の幻燈のように思われます」
                                       ―『ポラーノの広場』
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イーハトーブ館はなんと無料ですが内容は充実しています。

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こちらの方だけで一日中でも居られそう。いままで知らなかった作品をアニメで見たりして、
感銘を受けました。『雪渡り』『虔十公園林』など。
賢治は「やなやつ」を書くのもうまいところがすごいとおもいます。

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記念館の脇には胡四王神社に続く道があります。

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人の姿もない山上の神社からは北上川と田畑が眺められます。

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参道にある「触れると愛が生れる杉」
愛と言っても愛されて幸せとかそういうんじゃなくて『よだかの星』みたいな愛なのだろうか、と思うと触れるのも覚悟が要るような・・・

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記念館の入口には『猫の事務所』が。

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大好きなお話だけど読むたびにせつない。かまねこ・・・

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美しい一日でした。

また近いうちに再訪したいと思います。


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花巻に伝わる鹿踊り。


四月半ばの上田市に行ってきました。

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上田駅には新幹線が停まります。
駅から上田城までは歩いて15分ぐらい。

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真田昌幸が上田城を築いたのは天正十一年(1583年)頃。
千曲川が流れる尼ヶ淵の断崖城に築かれたため、尼ヶ淵城とも呼ばれています。
二度にわたり徳川の大軍を退かせたことで知られる名城です。

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戦国の世、武田氏や北条氏や上杉氏に囲まれていた真田氏は、時勢によって主を代え、生き残りをはかってきました。
と言っても本当に弱小であれば主君を代えることもできないわけで、それができたのは勇猛果敢な真田の兵を誰もが味方に欲しがったおかげです。
第一次上田合戦の発端は、徳川家康が対立していた北条氏直と和睦する際の条件として、上州沼田を氏直に引き渡すよう真田昌幸に命じたことでした。
「沼田は自分の力で得た領地」と昌幸は拒絶。怒った家康は七千の兵で上田城を攻めましたが、真田軍五百が応戦。三ヶ月に渡る攻防の末、徳川軍は引き上げました。
真田の強さを認めた徳川家康は、真田昌幸の長男信幸に自分の養女を娶せます。それが徳川四天王本多忠勝の娘、真田信幸正室、小松姫です。
慶長五年、石田三成が挙兵すると、父の真田昌幸と次男幸村(信繁)は石田方に、長男信幸は徳川方につくこととなりました。どちらが勝っても、真田家を残すためです。ちなみに幸村の妻は石田三成の盟友大谷吉継の娘でした。
真田昌幸と幸村は上田城で徳川秀忠の軍勢三万八千を三千の兵力で迎え撃ちます。上田城を攻略できなかった徳川勢の本隊が関ヶ原に着く頃には戦いは終っていました。

とはいえ徳川方が勝利した以上、真田昌幸と幸村の死罪は免れないところでしたが、真田信幸は「父と弟の命の代りに私の命を取ってください」と家康に訴えました。舅の本多忠勝の加勢もあり、家康も折れて紀州九度山への配流にとどめます。
真田昌幸は九度山で没し、幸村は慶長十九年、豊臣方に招聘され大坂城に入城。大坂夏の陣では徳川家康本陣まで肉迫しましたが、討死。長男は豊臣秀頼と共に自刃。敗れたとはいえ真田の武勇は天下に響き渡り、「日本一の兵」と称えられました。

真田信幸はその後、松代へ移封となり、九十三歳で没するまでその地を治めました。

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北国街道。

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上田駅から電車に乗って、別所温泉へ。

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戦国真田部屋なる一室に泊まってみました。
『真田太平記』完備。

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古い寺社の残る温泉地を歩いていると、なんともいえず満たされた気持になります。

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山里には、思いがけずまだ桜が残っておりました。

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