2017年01月

去年のニュースだが

米20ドル新紙幣に奴隷解放運動家 1世紀ぶり女性登場
米財務省のルー財務長官は20日、20ドル紙幣の新デザインに奴隷解放運動に献身した黒人女性ハリエット・タブマンを採用すると発表した。米国の紙幣には100年以上女性が登場していなかった。 当初、現在の10ドル紙幣に描かれている建国の父で初代財務長官のアレキサンダー・ハミルトンを女性に入れ替える予定だったが、ハミルトン擁護運動や20ドル紙幣への女性採用を求める運動が起き、10ドル紙幣はハミルトンを維持し、20ドル紙幣にタブマンを採用すると決めた。
タブマンは1820年代に奴隷として生まれ、後に奴隷が米国北部やカナダに脱出するのを支援する秘密組織「地下鉄道の指導者となり、多くの黒人を自由に導いた人物として尊敬を集めている。このほか、10ドル紙幣の裏には女性参政権運動の指導者たち、5ドル紙幣の裏には、リンカーン記念堂とエレノア・ルーズベルト大統領夫人やキング牧師などの新イメージも採用される。財務省は新紙幣の最終デザインを2020年に発表するとしている。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN21H0W_R20C16A4000000/ 

現在の20ドル紙幣はアンドリュー・ジャクソン大統領(第7代)である。
黒人奴隷主として成り上がり、クリーク戦争で「女を残すとまた部族が増える」と言ってジェノサイドした人だ。
このジャクソン大統領が新20ドル紙幣ではハリエット・タブマンの裏側になるようで、
ある意味アメリカ合衆国を象徴した紙幣になると言えなくもない。



この本は興味深かった。音楽家である著者が、ゴスペルと「地下鉄道」の関係について研究している。以下にその内容を記す。

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ハリエット・タブマンはアフリカから連れて来られた奴隷の三代目の奴隷家族の一員として、メリーランド州東海岸近くで生まれた。
11歳の頃、二人の姉が南部に売られていく場面を目の当たりにした。
「二人は足を鎖で繋がれ、奴隷商人に追い立てられるように連れて行かれた。しかも姉のうち一人には二人の子供がいて、泣いている子供と容赦なく引き離された」
12歳の時、逃亡奴隷を助けようとして白人に頭部を殴打され、瀕死の重傷を負った。治療を施されることもなかったが、自力で回復すると、その後は特異な能力を発揮するようになった。
29歳で、自分が別の主人に売られると知った時、逃亡することを決めた。そして地下鉄道の「駅」を探し出した。


       地下鉄道

地下鉄道は一般の鉄道に例えられてできた用語である。この用語を使えば、一見普通の鉄道について会話しているように聞こえるため、秘密を守るために使われるようになった。

  • 仲介人(agents) - 奴隷たちが鉄道関係者と接触できるように助けた人々。
  • 車掌(conductors) - 奴隷たちを誘導した人々。
  • 駅、停車場、停車駅(stations) - 奴隷の隠れ家。
  • 駅長(stationmasters) - 自分の家に奴隷をかくまった人々。
  • 乗客(passengers)、貨物(cargo)- 逃亡中の奴隷たちを指す言葉。
  • 奴隷たちは「切符」(ticket)を入手しなければならなかった。
  • 友達のいる友達(a friend with friends) - 秘密の合い言葉。



    逃亡に成功したハリエットは地下鉄道の「車掌」となり、奴隷たちを導いた。1861年に南北戦争が始まると従軍し、看護婦兼料理人、スカウトやスパイとして最前線で活躍した。
    「車掌」として行動している時にハリエットが好んで取ったコミュニケーションの方法は、歌に託したメッセージであった。文字が読めない黒人奴隷たちは、歌によって様々なことを伝えた。白人に聞かれてもよいように、暗喩を駆使して。

         Follow the Drinking Gourd

    Follow the drinking gourd,
    Follow the drinking gourd,
    For the old man is a-waiting for to carry you to freedom
    Follow the drinking gourd,
    When the Sun goes down
    And the first quail calls
    Follow the drinking gourd,
    For the old man is a-waiting for to carry you to freedom
    Follow the drinking gourd,
    The riverbank would make a mighty good road
    Dead trees will show you the way
    Left foot,peg foot traveling on
    Follow the drinking gourd,
    The river ends between two hills.
    Follow the drinking gourd,
    There's another river on the other side
    Follow the drinking gourd

    北斗七星を目指して行け

    北斗七星を目指して行け

    老人がお前たちを自由へ導くため待っている

    北斗七星を目指して行け

    日が沈み

    最初の鶉の声がする時

    北斗七星を目指して行け

    老人がお前たちを自由へ導くため待っている

    北斗七星を目指して行け
    川の岸を進むのがいいのだ(※1)
    枯れた木は方向を示してくれる(※2)
    左側にあるペグ・マークに沿って進むのだ(※3)
    北斗七星を目指して行け
    川が二つの丘の間で終わったら
    北斗七星を目指して行け
    丘の向こう側には別の川がある
    北斗七星を目指して行け


    ※1 奴隷ハンターたちは犬を連れて追いかけてくる。自分たちのにおいを消して犬たちを迷わせる為、水の中を歩く。
    ※2 枯れた木の北側にはコケが生えている。
    ※3 ペグ・レッグ・ジョーという名の「車掌」がいて、枯れた木にペグ・マーク(大工が使うマーク)を逃亡の案内の為に書いておいたと言われている。

    この歌の歌詞が教えるとおりに谷を抜け、次の大きな河に沿って北へ向かうとミシシッピー川に到着する。ミシシッピー川を北上するとオハイオ川に行きつくので「北」へ逃れることができた。





    上野動物園のマダガスカルコーナーは気合が入っている。

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    童謡『アイアイ』で、「南の島の、しっぽの長い、猿」と歌われているアイアイ

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    この「南の島」がマダガスカルであるが、アイアイは地元民には姿が不気味だときらわれて、
    見つけ次第始末されたので、いまや絶滅危惧種となっている。

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    マダガスカルにはレムール(キツネザル)類の固有種が多く生息する。
    マダガスカルには猿が渡来せず、アフリカにいるような大型哺乳類や猛獣が存在しなかったので、
    原猿類が残ったのである。
    彼らは表情ではなく、においや尻尾や鳴き声でコミュニケーションを取る。

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    以下、主に駐マダガスカル大使を勤めた山口氏の著書『マダガスカル』によって、記述する。




    マダガスカルはアフリカの隣の島国であるが、自分たちをアフリカ人とは思っていない。
    どちらかというとアジアに親近感を持っている。
    確かに彼らの先祖はマレー・ポリネシアから海を渡ってやってきた人々で、マダガスカル語はマレー語の一種なのである。
    主食は米で、一人当たりの消費量では日本の2倍。そして強い先祖崇拝の伝統と相互扶助の習慣がある。しきたり通りの儀式をやってもらって「先祖」になることが何より重要であるため、「土の中に直に埋められてしまえ」というのが、人に対する最大の侮辱であるという。墓ではなく土の中に埋められたのでは「先祖」になれないのである。

    マダガスカル、という名はマルコ・ポーロ由来である。西暦1500年、ポルトガル人の船乗りディエゴ・ディアスがアフリカの東の島に漂着した。この島の報告書を受け取ったポルトガル国王は「これは東方見聞録にあるマダガスカル島に違いない」と断定、以来この島はマダガスカル島と呼ばれることになった。
    ちなみにマルコ・ポーロがマダガスカルと呼んだのは実際にはアフリカ東岸のモガディシオ(現在のソマリアの首都)のことであった。

    18世紀にはメリナ王朝の名君アンドリアナムプイニメリナ王が天下統一を成し遂げた。
    「余は唯一の国王なり。海が王国の境界をなす」
    しかし英仏の角遂の末、1896年、フランスの植民地となってしまった。フランスから派遣されてきた将軍が権力を掌握し、王政は廃止されて、女王ラナヴァルナ三世および総理大臣ライニライアリヴニはアルジェーに流刑となった。

    日本とマダガスカルとの関わりは、日露戦争の頃に始まる。
    ロシア帝国のバルチック艦隊が対馬沖に向かう途中、マダガスカルで補給を行い、それをディエゴ・スアレスに住んでいた日本人雑貨商がボンベイ経由で日本に打電し、これがバルチック艦隊の動静を知る貴重な第一報になったと言われている。
    当時、日英同盟のゆえにロシアはイギリスの勢力圏では補給を得られず、仏領マダガスカルに寄港する巡りあわせとなった。その結果、マラリアその他の熱帯病で多くの犠牲者を出して、戦う前からダメージを受ける羽目になったのであった。
    その時点ではマダガスカル人は日本のことをほぼ知らなかった。関心が向けられるようになったのは1913年、マダガスカルの抗仏運動家ラベルザウナ神父が『日本と日本人』という著書を出版してからである。
    マダガスカルはフランスの植民地となる前にすでに全国統一されていたので、植民地になると同時に独立を目指す抵抗組織が生れていた。ラベルザウナ神父はパリで日本についての文献を漁り、日本人学者の知己を得て、日本が西洋の生活様式を採り入れつつも自国の伝統を保持していることを知ったのであった。神父の著書は独立運動家の間で熱心に回し読みされ、大いに独立への意気を燃え立たせたという。

    第二次世界大戦では、マダガスカルはヴィシーフランスの支配下にあり、枢軸側であった。
    ディエゴ・スアレス軍港を制圧しようとするイギリスに対し、ドイツ海軍はアフリカ東岸のインド洋にまで艦隊を派遣する余裕はなかったので、日本が潜水隊を送った。特殊潜航艇ディエゴ・スアレス港侵攻作戦である。
    1942年5月30日、岩瀬勝輔少尉と高田高三二曹、秋枝三郎大尉と竹本正巳一曹が乗り組んだ特殊潜航艇二艇は、湾内に潜入して魚雷四発を放ち、戦艦ラミリーズを大破、その近くにあったタンカー、ブリティッシュ・ロイヤルティー号を撃沈するという戦果を挙げた。その後、四名はイギリス兵と交戦の末、戦死。フランスとイギリスの戦闘は続いたが、ただでさえギリギリの日本海軍が、マダガスカルに増援を送ることはできなかった。

    マダガスカルの戦い

    1997年、戦死した四名の慰霊碑がアンツィラナナ(旧名ディエゴ・スアレス)に建立された。式典にはアンドリアンリヴォ首相夫人も参列。遠くアフリカの東の地にまでやって来て戦った勇士たちに感銘を受け、当時カナダと競っていた愛知万博の開催に協力を約束してくれたのであった。

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