【石見銀山資料館より】
西洋人の描いた日本地図
16世紀半ば頃からキリスト教の布教と貿易の拡大を目的とした西洋人たちの活動は、彼らが製作した日本地図に最もよく現れている。日本を含めアジアを描いた地図は、 15世紀~16世紀、アジア進出による情報量の増大と地図製作の技術向上が相まって発展を遂げた。そんな中で日本の形や地域情報が把握されはじめ、鉱山の場所なども地図上に現れるようになる。
オリテリウス/テイセラ日本図(35.5×48.5㎝) 神戸市立博物館 1595年
拡大部分:石見銀山の場所が示されている
1592年にポルトガルのイエズス会宣教師テイセラが製作。1595年にアントワープで印刷されたもの。「Hivami(石見)」の上に「Argenti fodinae(銀鉱山)」という記載がある。
宣教師の見た銀山
フランシスコ・ザビエル 『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄』
「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」
「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」
訳者:井上郁二氏・アルーペ神父(岩波文庫)
ルイス・フロイス「1586年・アレッサンドロ・ヴァリニヤノに宛てた書簡」
「あまり顕栄でない一族(毛利氏)が、知慮と勇気により彼の13か国の領主となるに至った。 山脈と日本の銀とを有する石見国がその中にある。」
訳者:村上直次郎氏
(『イエズス会 日本年報下』新異国叢書4 雄松堂書店)
フェルナンド・ゲレロ『日本諸国記』
「これによって内府様(徳川家康)は、今までの日本国の支配権を獲得したすべての人の中で最大となるであろう。なぜなら彼は毛利(輝元)殿から、銀の鉱床がその地にある7ヶ国を没収し、9ヶ国の中で2ヶ国だけを残させているが、それらも時を経てから入手するであろうと考えられているからである。」
訳者:田所清克氏・住田育法氏・東光博英氏共訳
(『16・17世紀イエズス会日本報告集』同朋舎出版)
ジョアン・ロドリーゲス『日本教会史』
「日本の国土には多くの鉱山があって、あらゆる種類の金属を産出する。主要なものは全土にある銀山であって、中国の石見、北の海にある佐渡島、その多くの地にある金山というのがそれである。鉱山から銀をとる方法はあまり古いものではなく、また高田の都市で最初に採りはじめてからあまり年を経ていないといわれ、引き続いて行われていて、今日では、日本人はきわめて巧妙な域に達しており、銀の用途は王国全土にわたり甚だ大きい。」
訳者:浜口乃二雄氏
(『大航海時代叢書』IX)
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その昔、日本は金銀の産出国でした。
17世紀頃には、世界の銀の三分の一は日本からの輸出品だったぐらいです。
武家政権でなかったら、ポトシ銀山(西洋人が原住民を奴隷として酷使した)のように
なっていたでしょう。
1545年、アルトペルー(現在のボリビア)の奥地にスペイン人が大銀山を「発見」し、
それまで高山の荒れ地に過ぎなかったポトシに、瞬く間に人口十二万を擁する一大都市ができあがりました。
これは当時のマドリード、パリ、ローマを凌ぐ人口です。
ポトシは金銀細工で飾り立てられ、ヨーロッパでは「ポトシのように豊かな」という慣用句が囁かれました。
しかし鉱山での労働は苛酷なものです。三百mにも達する深い坑道の暗闇の中を、蝋燭を頼りに掘るのです。
ポトシの標高は四千m、もともと人間の居住に適する場所ではありません。
しかもそこで行われた水銀アマルガム法による銀の製錬は、大量の水銀蒸気を発生させるために、
それに携わった者たちは頭髪や歯が抜け落ち、体が震えてまともに歩くこともできない、
廃人同様の身体になりました。
スペイン人コンキスタドーレス(征服者達)は周辺のインディオをかき集め、この労働に当たらせたのです。
ポトシに斃れたインデイオは800万人にのぼったといわれています。
スペイン人がセロ・リコ(豊かな丘)と名付けた銀山は、
インデイオには「人を食う山」と呼ばれ恐れられました。
白人たちがやって来る以前、インカの王は銀山を発見していましたが、
あえて採掘はしなかったのです。
銀山労働への強制徴用は、インカ帝国以来の農業共同体も壊滅させてしまいました。
ポトシ銀山は奴隷制度の象徴として、「負の世界遺産」と言われています。
石見銀山はポトシとほぼ同時期に開発されましたが、働いていたのは技術者で、
奴隷はいませんでした。
戦国大名は銀山を巡って凄まじい争奪戦を繰り広げましたが、
銀山自体が戦場になったわけではなく、山城が舞台の陣取り合戦です。
そしてお互い同士でどんなに激しく争っても、
外国の力を借りて敵を討とうとする武将はいませんでした。
スペインやポルトガルは虎視眈眈と隙をうかがっていましたが、
「サムライ怖すぎ武力侵略はムリ」と報告せざるを得ませんでした。
日本人はユーラシア大陸の住人に比べると金銀そのものに対する執着心が薄く、
欲しいものが手に入るならパッパと気前よく金でも銀でも支払ってしまう、
つまり貿易だけで十分儲かる相手だったことも、
戦争を吹っかけるまではいかなかった理由のひとつではあるでしょう。
(江戸時代になると、プロテスタントのオランダ以外は「侵略の意図あり」ということで貿易からも追い出されますが)
徳川家康は石見銀山を領有した後、水銀アマルガム法を試してみましたが、
すぐやめてしまいました。
それは環境に悪いからというより、当時の日本では水銀が貴重で高価だったからのようですが、
理由はどうあれそのおかげで石見銀山は今でもきれいな自然に恵まれています。
しかも鉱山というのは(製錬に使うため)木が伐採されて禿山になるものですが、
石見銀山では住民が植林に熱心だったため(木材を伐り出す地域を限って輪番制にしていた)
鉱山らしからぬ緑豊かな山です。
ポトシの赤い山と壮麗なコロニアル建築を思い浮かべつつ
よくある日本の田舎の風景そのもののような石見銀山の道を歩いていると
なんともいえない感情が湧きあがってきて
いつまでもこの道が続けばよいのにと思うのでした。