2013年01月

最上のわざ


この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役だたずとも
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。






ヘルマン・ホイベルス神父。
来日してすぐ関東大震災に遭い、しばらく上智大学の庭でキャンプ生活をする羽目になったが、
黙々と避難する人々を見て
「日本人が好きになった」といって、それからずっと日本に暮らした。
「最上のわざ」はホイベルス神父が故郷ドイツの友人からもらったという詩。
サミュエル・ウルマンの『青春』とは全く逆方向の詩だが
どちらも好きだな。

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7月17日

上毛高原→大清水→三平峠→尾瀬沼ヒュッテ→大江湿原



山仲間8名で二泊三日、延べ30kmの尾瀬歩き。

初日は大清水から三平峠まで、標高差500mを登る。
入山コースとしてはきついほうで、途中で後悔しそうになるが、コース半ばにある「岩清水」が素晴らしい。
生まれてこのかたこんな感動的な物質は口にしたことがない、というぐらい美味しい。

「十二曲り」と呼ばれる急登に耐え、尾瀬沼にたどりつく。

湿原に群れ咲くニッコウキスゲ
写真や映像ではお馴染みの光景だが
実際その場に立って目にすると、この世のものとは思えない。

ニッコウキスゲは一日だけ咲いて萎む。
だからだろうか、美しい以上に、とてつもない気迫を感じる。
今日見た花は今日だけの花。明日見る花と同じではない。
そう思うと、花弁の一枚にも、特別な縁を感じないではいられない。
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ようこそいらっしゃいました。
皆様はこの夏、梅雨が明けて初めてのお客様です。
昨日まではほとんど気の毒なぐらいずぶ濡れで到着されたものですが
今日は尾瀬に初めて入道雲が出た日です。
幸運な皆様、どうぞごゆっくりこの尾瀬を堪能なさってください。


7月18日

尾瀬沼ヒュッテ→沼尻→見晴→元湯山荘→三条ノ滝・平滑ノ滝→元湯山荘

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7月19日

元湯山荘→山ノ鼻→鳩待峠


燧ヶ岳と至仏山に挟まれて、尾瀬ヶ原をひたすら縦断する。
燧ヶ岳はその噴火活動で尾瀬沼をつくった。
東北最高峰2345mのその姿がなかったとしたら、尾瀬の魅力は半減するだろう。
今回は団体行動なので断念したが、かならず登りたい山だ。


尾瀬を歩く 花に空に なみだ滲む
 君の護りし 浄土と思へば
<しろがね>

【長州藩】
戦国時代から関ヶ原の戦いまでは中国全土を支配していた毛利家だが、
徳川家康によって安芸(毛利元就生誕の地)をはじめとした領土の大半を奪われ、
周防・長門に押し込められた。
というわけで潜在的に徳川家への恨みはあるがあくまで潜在的で、
江戸時代の大半を普通の(お取り潰しを恐れひたすら目立たないようにしている)藩として過ごす。
普通じゃなくなるのは吉田松陰以降。

【吉田松陰】
長州藩の兵学者。江戸滞在中に黒船来航をその目で見て以来、尊皇攘夷思想の卸問屋と化す。
黒船に乗り込んで密航しようとしたり、老中暗殺計画を堂々と藩に具申したり、
「行動力のある奇人変人」の部類であったが、優しさもまた人間離れした人だったようである。
あらゆる人の長所をよく見抜き、牢の中でも囚人相手に講義をした。
萩で私塾の松下村塾を開き、多くの人材を育成。安政の大獄で刑死。

【桂小五郎】
長州藩士。松下村塾の門人ではないが、吉田松陰を敬愛し門人の礼をとっていた。
長州の攘夷派の兄貴分的存在。
幕末の志士仲間の中では現実的で、「逃げの小五郎」と言われたりしたが、
明治政府の中では理想主義な方で、死んだ仲間のことを思って鬱々としていた。
「萩へ帰って死にたい」が口癖だったが、明治の三元勲の一人として新政府の礎となる。
西南戦争の最中に京都で病没した。
奥方は元芸妓で、幕末の京都での活動を支えてくれた幾松さん。
身分の差を乗り越えて正式に結婚。仲良し夫婦であった。

【高杉晋作】
長州藩士。
結構身分の高い家の大事に育てられた一人息子だが、親の目を盗んで松下村塾に通ううちに
過激攘夷活動に身を投じる。
奇兵隊創設者。やたらと戦に強い。
長州藩は幕府に対し恭順する「俗論派」が主流だったが、高杉が決起し「正義派」が藩政府を制圧。
幕府は長州征伐に乗り出した(四境戦争)が全方位敗北。
「えっ幕府ってひょっとして弱いの?」と世間に思われることになった。
小倉城を落とした後、下関にて病没。
なのでその後の大政奉還→鳥羽伏見の戦には参加していない。

「動けば雷電の如く
 発すれば風雨の如し。
 衆目駭然、あえて正視するなし。
 これわが東行高杉君にあらずや」
(by伊藤博文)

【伊藤俊輔(博文)】
武士としては足軽ですらない最下層の出身。
松下村塾に入門して以来、勤皇仲間にひきたてられ侍身分として駆け回る。
松陰先生いわく「周旋(政治)の才あり」
維新の元勲にして、初代総理大臣。
政治家としては現実主義者だが、高杉さんのからむことは別。
勝つ見込みがあるとは全然思えなかった高杉さんの長府功山寺挙兵に真っ先に駆け付けたのが、
生涯最大の自慢。

【井上聞多(馨)】
長州藩士。
藩主親子と気安く口をきけるくらいの名門の出だが、イギリス公使館焼き討ちに加わるわ、
藩費を使いこんで女郎を買うわの放蕩書生。
伊藤俊輔ほか三人と共に、ロンドンへ(幕府の許可なく)留学した、いわゆる「長州ファイブ」の一人。
しかし到着後半年で、長州藩が外国船を砲撃し始めた(下関戦争)ことを知り、
伊藤と共に慌てて帰国。
講和のために奔走する。
政敵に襲われて死にかけるが、たまたま訪ねてきた外科医に畳針で五十針縫われて
一命をとりとめる。
数か月後、鴻城軍大将として高杉さんのクーデターに参戦。不死身か。
明治政府では外務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任。
公私の区別がつかない性格で、汚職を追及され政界を追われたこともあった。
が、自分の身を顧みず他者のために尽くすところもあり、常に人に大きな影響を与える存在であった。
維新をくぐりぬけた志士としては長生きしたほうで、享年81歳。

【アーネスト・サトー】
英国公使館の通訳官・書記官。初代駐日公使オールコックと二代目公使パークスに仕える。
天才的な語学能力と外交感覚の持ち主。
薩英戦争・下関戦争の講和交渉で薩摩や長州の志士に接し、
幕府の役人などよりはるかに頭もよく話が早いことを発見。
幕府よりも雄藩を支援すべきであると公使に進言。
「将軍がこの国のトップであり、京のミカドは儀礼的な存在にすぎない」という
17世紀のドイツ人ケンペル著『日本誌』の内容を律儀に信じていたフランスは、
終始一貫幕府に肩入れした。
結果、明治政府におけるイギリスの優位は他国の追随を許さないものとなる。
ちなみにサトーは本名(スラブ系の姓)
生涯独身であったが、日本に内縁の妻と三人の子供がいた。

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I  asked  God  for  strength ,  that  I  might  achieve

      I  was  made  weak  ,  that  I  might  learn  humbly  to  obey

I  asked  for  health ,  that  I  might  do  greater  things
    
     I  was  given  infirmity  ,  that  I  might  do  better  things

I  asked  for  riches  ,  that  I  might  be  happy

    I  was  given  poverty  ,  that  I  might  be  wise

I  asked  for  power  ,  that  I  might  have  the  praise  of  men

   I  was  given  weakness  ,  that  I  might  feel  the  need  of  God

I  asked  for  all  things  ,  that  I  might  enjoy  life

  I  was  given  life  ,  that  I  might  enjoy  all  things

I  got  nothing  that  I  asked  for  -  but  everything

  I  had  hoped  for


Almost  despite  myself  ,  my  unspoken  prayers  were  answered.

   I  am  among  all  men  ,  most  richly  blessed  !


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霧島が破局的噴火を起こしたら、というお話。
どうなるかというと、まず火砕流によって南九州の二百万人は即死。
降灰と土石流で48時間以内に一千万人が死亡。
数日のうちに大阪は都市機能を失い、東京も同じ運命をたどる。
噴煙は長期に渡って北半球を覆い、冷害による食糧難と紛争のために全世界で5億人が犠牲になる。

鹿児島を思い出しながら読んだ。
限りなく美しいあの風景。いま思うと丸ごと噴火が創ったものだった。
錦江湾から眺めた桜島。
見事な円錐形の薩摩富士・開聞岳。
~富士と呼ばれる山は、要するに成層火山なのだ。
私の愛する風景の多くが、火山と切り離せない。
極楽浄土のような尾瀬は、燧ヶ岳の噴火が生み出した。
富士山の展望地であり素晴らしい温泉を有する箱根は、いまも噴煙を燻らせている。

火山は豊かな恵みをもたらすがゆえに、猿人から人間への進化を可能にした。
火山こそは人類の創造神であり、火山帯は『エデン』だった。
そして人類はエデンから追放される。「破局噴火」によって…

著者は聖書や古事記の至るところに、噴火災害の記憶を見出だせると言う。
火の神カグツチを産んで黄泉の国へ行ったイザナミは火山神であり、その性質はスサノオに引き継がれている。
神武の東征は霧島の噴火から逃れて、活火山の無い近畿に移り住んだ一族の記憶である…
…そう言われると、そんな気がしてくる…
先祖が九重連山の辺りの産であるせいか、火山の話にはDNAがざわつくような感覚がある。
しばらく火山のことが頭から離れそうにない。



…火の燃えている大きな山のような物が、
海に投げ込まれた
そして海の三分の一が血となった
すると海の中にいた命あるものの三分の一が死に、
舟の三分の一も打ち壊された
いま私は見た
一羽の鷲が中天を飛びながら、
大声で言うのを聞いた
「災いが来る。災いが、災いが来る」

(ヨハネの黙示録 第八章)






おまけ【火山のコピペ】
富士山のフルパワー(過去の最大規模噴火)を1とした場合の、各火山のフルパワー比較

富士山       1 864年
桜島        2 1914年
北海道駒ヶ岳    3 1640年
有珠山       3 1663年
樽前山       4 1667年
浅間山       4 2万年前
九重山       5 8万年前
燧ヶ岳       7 35万年前

ピナツボ    11 1991年
箱根山     14 52000年前 ※横浜まで火砕流に飲み込まれた
大雪山     20 3万年前
摩周湖     36 7000年前
十和田湖     56 13000年前 ※青森県の大半を火砕流が焼き尽くす

霧島山        100 30万年前
サントリーニ     100 紀元前1628年
屈斜路湖       150 12万年前
クレーターレイク   150 7600年前
洞爺湖(有珠山の本体) 170 10万年前
クリル湖       180 8400年前

白頭山        220 10世紀

鬼界カルデラ     220 7300年前
           ※海底噴火にも関わらず九州の縄文文化が滅亡

支笏湖(樽前山の本体) 225 4万年前 
           ※火砕流が札幌を飲み込んで日本海に到達

阿多            320 10万年前

姶良カルデラ(桜島の本体)  450 22000年前 

                      
阿蘇山        600 87000年前 
           ※火砕流が九州の4分の3と山口県を焼き尽くす

タウポ湖       2300 24500年前
ラガリータカルデラ  2400 3000万年前

イエローストーン   2500 64万年前

トバ         2800 73000年前 
※当時の人類が1万人程度まで減少(トバ・カタストロフ理論)

スーパープルーム  1000000以上 2億5000万年前 
※地球史上最大といわれる噴火 当時の生物の約95%が絶滅

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サンライズ瀬戸で東京から高松へ。
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個室(ソロ)
大柄な人にはかなり窮屈でしょうが、158cmの私には十分。
目覚めた時には岡山、そして夜明けと共に瀬戸大橋を渡り、四国へ。
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こんぴらさんは海の神様。
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讃岐の山はおにぎりのよう。
高松から琴平までの道は、平野とため池が印象的。
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お宿は高松駅すぐ近くのJRホテルクレメント高松。
部屋の窓からは瀬戸内海が・・・曇りまくってて見えなかったのが残念。
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お部屋はキレイで満足。
四国も思ったより寒いと思ったら、東京では大雪になっていたらしい。

高松から松山へは、電車で移動。

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松山城は山の上(リフトで行きました)
眺望抜群!

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瀬戸の海 石鎚の峰 松山の 街を見まもる 天守閣かな  
 <しろがね>

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四国は不思議だな。
古事記にも「四つの顔がある」と書かれ、旧国領と現在の県がほぼイコールで
(廃藩置県の時に香川と徳島、もしくは愛媛と香川を一緒にしようという案もあったが、嫌がられた)
個性がはっきりしている。



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登らないでっていうか登れそうもない石垣。

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俳句ポスト。投句しましたよ!


伊予松山と会津若松にはいくつか共通点がある。
戦国時代の殿様とか(加藤嘉明が伊予から会津へ、蒲生忠知が会津から伊予へ転封になっている)
江戸時代は松平家一筋で親藩で、
幕末は長州征伐で恨みを買って、鳥羽伏見戦後に朝敵認定されたとか。
伊予が会津ほど酷い目に遭わなかったのは、土佐がかばってくれたから。
会津の悲劇を思うと伊予は土佐に足を向けて寝られないはずだが、特に感謝した形跡は見受けられない。
広島や岡山や大阪ばかり見ず、高知を大事にしてやってほしいと思う。


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東京に戻ったら雪が残っていてびっくりしました。

Yesterday  is   History

Tomorrow   is   a  Mystery

And   today  is  a  gift,

That's  why  we  call  it

"The  Present "



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